私の先生2016年07月28日


君の心が戦争を起こす


■羽仁五郎
「君の心が戦争を起こす」 はじめに  -より
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 この本は、二度と戦争を起こさせないための本だ。
 今、世界は、そして日本は、一歩ずつ戦争の方向に向かって進んでいると思われる。誰もがそれを望んでいないのに、誰もがそのことに手を貸している。そんな不思議な構造の時代になってしまっているのだ。こういう人間の心、歴史の動きというものは、いったいどこから来るのか。
 この本では、戦争が起こる理由、人びとが戦争を望むようにしむけられるしくみ、テレビや小説、映画の流行とかの意味、みんなが人生をあきらめさせられてしまっていること、そして戦争を起こす犯人の正体と、戦争を防ぐ方法についてなど、ぼくが八十年余りの生涯をかけて研究してきたことの成果を、書きつくした。だからこれは、平和を愛する日本の人びとに贈る、ぼくの遺言の書なのだ。
一九八二年一二月一日
羽仁五郎

「君の心が戦争を起こす」 おわりに  -より
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 反戦論はオオカミ少年だ、という議論がある。戦争が起こるぞ、起こるぞ、と騒いでいるが、なんだ、ちっとも始まらないじゃないか。そんなことばかり言ってると、今に反戦論自体、すっかり信用がなくなってしまうぞ、ということらしい。
 しかしこの考えは、とんでもないまちがいだ。日本でもアメリカでも今までなんとか平和がたもたれてきたのは、みんなが、この反戦論、戦争はいやだ、絶対反対という意見を叫んできたからなのだ。それでもたりないくらいで、今やずるずると“右傾化”が始まっている。もっとたくさんの大きな声を、戦争に反対という声を、集めなければだめなのだ。この本がそれに一役かってくれることを、ぼくは心から願っている。「予言」になってしまうが、まだだいじょうぶだとか、もうだめだとか、誰かにまかせておけとか考えていたら、必ず戦争になってしまうことを、くりかえして強調しておきたい。
 終わりに、この本を作るのに貴重な協力をしてくれた若き友、小野伸尚君に、感謝のことばをささげる。
羽仁五郎

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 東京の国分寺に住んで二浪だった私は、北陸にある大学受験の帰りに、前年名古屋の大学に入学していた友人の下宿を訪れました。1969年2月のことだったと思う。ちょうど、カルメン・マキの「時には母のない子のように」がラジオから流れていた頃です。
 友人の通う大学の体育館で、羽仁五郎氏の講演があると聞き、出かけました。そのときのうわさでは、ここに来る前の東京の大学の講演では、「おまえは、ただの扇動家だ!」というヤジに「すぐれた思想家は、すぐれた扇動家である!」と言い返し、そのまま学校封鎖になだれこんだということだった。
 そのときは、遠くから羽仁五郎さんを見ただけでした。学校封鎖にもなりませんでした。しかし、その北陸の大学に通いながら、彼の著作は読み続けました。

 彼の思想を理解したとは言えないけど、「野党第一党」に投票を、という言葉は重いものでした。権力は腐敗するから、入れ替えが必要ということです。
 現在の野党第一党は、民進党ですが、どうしてもこの党が野党とは思えません。実体は、与党と変わりがない、というのが実感です。
 羽仁さんが生きていらっしゃったら、それでも野党第一党に投票を、とおっしゃるのでしょうか。
 最善の策として、次回選挙では「野党統一候補」ですべて一本化してほしいです。

 
「君の心が戦争を起こす」を書いたのが1982年12月、亡くなったのが半年後の1983年6月です。まさに、遺言の書になってしまいました。

 33年前に買ったこの本は数度の引っ越しにも紛失することなく、ぼろぼろにはなってますが、この危うい時期に改めて読み直そうと思っています。


■小学校
 「えーっ、あたしも5年生の時、甲州街道にアベベ見に行った!」の、一言で仕事仲間であった彼女の年令詐称がばれてしまった原因でもある、あの東京オリンピックの4年前。
 私は港区立青山小学校の5年生でした。先生から聞いたのでしょう、安保反対の国会前デモで樺美智子さんが死んだとのことでした。かわいそうだと思ったのでしょう。

 放課後、現場に行こうと、青山通りを赤坂方面に歩きました。国会議事堂など行ったことはないはずなので、行けばなんとかわかるだろう、ぐらいの気持ちだったのだと思います。
 結局迷子になり、暗くなってからなんとか家まで戻ることができました。
このことは、後で学校内で問題となったと聞いてます。

 私の組の先生は学芸大卒業のほやほやでしたので、体育の時間は楽しいものでした。サッカー、野球などいろいろなことをさせてもらいました。休みの日に、神宮にサッカーの試合見につれてってもらった思いでもあります。
 しかし、隣の組の担任先生は、ちょっとこわそうな顔で、体育の時間は、年間通して、「行進」だけでした。こども心に、かわいそうに、とおもったものです。雨の日の体育でも、校舎内の「行進」です。
 当時の組替えは4年生になる時だけでしたから、隣の組は、もしかしたら3年間、体育の授業は「行進」だけだったかもしれません。
 当時は、一人ひとりの先生の権限が強かった気がします。

(校内の階段の踊り場の上のほうのガラス窓に、弾丸が貫通したような丸い穴があいてました。あの穴はなんだったのでしょう?)

■中学校
 小学6年の途中で港区から国分寺町(今は国分寺市)の麦畑とシバ畑と雑木林しかないとこに引っ越しました。家の西方に「けやきだい団地」が建つ前は、富士山がくっきり見え、立川飛行場に離発着する飛行機が白く光りながら富士山のお腹を横切る姿は今でもまぶたに残ります。

 引っ越して住んだとこの近くに外人ハウスと呼んでたエリアがありました。横田、立川基地勤務のアメリカ軍人家族が10家族くらい?住んでました。なかでも、私と同じ位の年の男(名前が思い出せない!)の子と、その妹二人とはときどき一緒に遊びました。お姉さんはベティ、下が私の弟と同い年。コロッとしていてかわいい子でしたが、弟は彼女と相撲して投げ飛ばして、よく泣かしていました。

 中学は、国分寺三中です。ただ、入学時には校舎が未完成で、しばらくは、ちょっと離れたとこにある一中に間借り、自転車通学でした。

 担任の坂根先生は美術の先生で、美術の授業なのに武田信玄、プロレスの話を興味深く話してくれました。クラス全員で日記をつけることになり、日記帳の表題に「きょうの出来事をこう思う」と書いたら、ほめられました。ほめられたのは、この1回だけでした。

 この新しい三中の校歌を作る際、坂根先生は決まりかけていた校歌に猛反対をしたそうです。後で聞いた話なので伝聞です。反対の相手は、校長一派で、わけは、歌詞が文語体であったからです。学校を二分するほどの騒ぎになったようです。
 どんなことに対しても「いいことは、いい」「だめなことはだめ」と言うのは、簡単そうで、たいへんむずかしいことでもあります。大人になると、欲、しがらみ、世間体などで、思っていることを表に出さない、出せないことがあります。
 わたしは、坂根先生のように、いいことはいい、だめなことはだめ、と常に表現できる生きかたをしたいと思っています。それには、つねに自分を律していかねばならないので、むずかしいことではあるのですが。

 ある日の授業が教頭先生によるものでした。はっきり覚えてますが、黒板に渡り鳥のV字飛行の絵を描きました。「このように、後ろについて飛んでる鳥は、先頭の鳥に従って飛ぶものだ。」当時は、この教頭先生がなにを言いたいのか、はっきりとは理解ができませんでしたが。たぶん、言いたかったのは、人間の世界においても、トップの人間の言うことに従うのは当たり前のことだ。ということだったのでしょう。
 きっと、管理者である自分の言うことをきかない、教職員が多かったんでしょうね。

 子供にこの種の洗脳教育をするのなら、中学では遅すぎるでしょう。小学生の時に、徹底的に洗脳しなければならないでしょう。V字飛行の教頭の話を聞いたときには、なんか、うさんくさい気配は感じましたから。

■高校
 隣の町にある立川高校に、バスと電車(中央線)で通学です。すでに「けやきだい団地」ができていたので、家の近くに国立駅行きのバス停ができていました。
 担任は、英語の先生でもある秦先生です。入学は、1964年でしたから、ベトナム戦争が激しいときでした。英語の授業時間は、ベトナム戦争の話が多かった記憶があります。たしか、近いうちに、アメリカが撤退して戦争は終わるだろう、とおっしゃったはずです。しかし、ベトナム戦争が終わったのは、その10年後、1975年でした。
 あのころのニュースでは、横須賀に寄港したアメリカ軍の原子力船が排出する放射能の濃度を測っているとこが映っていました。今も測っているのでしょうか。


今思うと、「私の先生」は、それぞれ勝手なことをしているけど、反権力を貫いた人でした。私の小さい頃住んでいた近くに、たしか、吉田先生と言われていた小説家(?)の年輩の方がいて、どうみても金持ちではないのですが、町内の人からは尊敬されていました。
 それが、いつのころからか、金をたくさん稼ぐ人が尊敬される世の中に変わってしまいました。
 10年ほど前だったか、小説家、安倍譲二はNHKテレビで「小説家は常に反権力でなければいけない。」とおっしゃってましたが、いまや、そのNHKは見るも無惨な政府公報担当テレビ部になりさがりました。民放も風前の灯火です。

 現在の世の中の情勢を知る手段として、インターネット接続を同年代の友人、知り合いに勧め、そのお手伝いをしています。少なくとも、テレビ、新聞(東京新聞を除く)よりましです。
 しかし、このネットからの情報入手も、いつまでできるのか。政府が、回線所有者、接続業者を締め上げれば保証のかぎりではありません。
 

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