2017夏、南房総の海水浴場2017年07月22日

 2017年7月18日19日、もっとも近い海水浴場3ヶ所をのぞいてきました。
南房総千倉の、「瀬戸浜海水浴場」「南朝夷海水浴場」と白浜町「塩浦海水浴場」。
瀬戸浜と南朝夷の海水浴場は、間の遊泳禁止エリアを挟んで隣接してます。

 まだ子供たちが夏休みにはいってないからか、どこもプライベートビーチ状態です。
のんびりしています。
 隣接の無料駐車場もがらがらです。
 私の知る限り、南房総の海水浴場の駐車場は無料です。

塩浦海水浴場は、まだ売店は営業を開始してないようでした。
 そこで、例年のとおりに、料金チェックします。

貸し物料金


南朝夷海水浴場2



 パラソル、サマーベッドなどは、どこも2000円(1日)ほどです。
近くのホームセンター(コメリ)とかヤックスで買っても、ほぼおなじ料金です。
 売店の飲食料金ですが、お祭りとか海水浴場の飲食料金は高い、という印象をもってます。でも、ゆったり、開放感も含めた料金と思えば妥当な料金なのでしょう。
 瀬戸浜海水浴場の、ある売店の料金表です。
クリックで拡大できます。

売店メニュ料金表


 トイレ、シャワーは、3ヶ所とも完備してます。
無料です。
 瀬戸浜、南朝夷、塩浦の各トイレ・シャワーです。

瀬戸浜海水浴場、トイレ・シャワー

南朝夷海水浴場、トイレ・シャワー

塩浦海水浴場、トイレ・シャワー

 下の写真は、上から、瀬戸浜、南朝夷、塩浦の各海水浴場です。
ゆったりできます。
砂はサラサラです。
でも、日中は、熱くて足の裏が焼けます。

瀬戸浜海水浴場

南朝夷海水浴場

塩浦海水浴場



もっともシンプルな郵便受け2016年09月21日

 10年ほど前に国分寺のJマートで買った郵便受けが老朽化して、雨が郵便物をぬらすようになった。
 それだけではなく、夏はアリの巣窟となることもある。
開閉する蓋は、暑さ寒さの繰り返しででこぼこになり、雨がたまる。

 やっぱりこのへんで新しい郵便受けにしよう!と思い始めて1ヶ月。
ネットで調べると、けっこう高いものだと気づいたので自作に決定。

 製作の手間を極力少なく、費用も極力少なく、と頭のなかで設計図を書いては消し、書いては消しの繰り返し。

 可能な限りの単純化を実現すべく、取っ手をつけた扉を開け閉めする、写真のような形に決定。板を縦横に配置してボンド、ネジで固定するとかなり頑丈そうな構造となりました。

 内部の寸法は、間口が14cm、高さが27cm、奥行きが36cmで、A4の封筒が余裕をもって入ります。

 ただ、扉と、横板の真ん中の板の固定が弱いと思われるので写真のような補強をしました。







 
 材料は、1×4(ワンバイフォー)6フィートを3枚。
その他に蝶番2個、取っ手、ネジ、ボンド、透明防腐剤。

 買ったのは、1×4の6フィートが1枚220円、3枚で660円。
蝶番が2個で150円ほど。ボンドが200円くらい。合計で1000円くらいです。

 その他は、家にあった物を使用。なんといっても、取っ手は40年以上前の物、青森県を走っていた国鉄バスの点検用扉に付いていた物です。何年か前に義父からもらったのですが、ようやく出番がまわってきました。
 毎日、散歩で前を通る隣の集落のおばあちゃんが、「かっこいい取っ手だね。」とほめてくれました。

 意外に手間取ったのが、「郵便受け」自体の固定でした。家にあった2×4材をネジ止めして下のブロックにロープで。
 でもなんだかかっこわるいなー。他の方法を検討中です。
 また、風で扉が開かないように、マグネットシートを貼り付けました。

 台風の近づく日に設置、設置後のかなりの雨でも内部に侵入はなく、これで完成です。

(参考) 1×4(ワンバイフォー)6フィートの部材とり
36cm×5枚(180cm)→横板
36cm×1枚→横板 18cm×4枚→底板 24cm×3枚(180cm)→天井板
24cm×2枚→天井板 31cm×4枚(172cm)→扉、奥の板

瀬戸浜、南千倉海水浴場2016年8月15日2016年08月15日

 2016年8月15日、リオオリンピックのボルト金メダルを見たあと、わが千倉町の2つの海水浴場を見に行ってきました。
 もちろん、走って見に行ったわけではありません。

 太平洋を北に走っている台風の影響なのか、比較的乾いた空気。最初は、瀬戸浜海水浴場です。平日のお昼頃、お盆休みのさいちゅうだからか、駐車場はほぼ満杯(無料)。
 

瀬戸浜2

 例年、家族連れが多く、ゆったり気分を満喫できます。

瀬戸浜1



 次に向かったのは、南千倉海水浴場です。
こちらも、駐車場は、ほぼ満杯(無料)。
 瀬戸浜海水浴場と遊泳禁止ゾーンを挟んで浜続きです。浜に流れ込む排水路をせき止めてありました。
 砂浜の広さも大きめです。こちらも家族連れが多いです。

 私の住む集落のお年寄りの話では、隣接する今は「千倉自動車学校」となっている場所では、昔は競馬大会が催されて、地元の人の楽しみだったそうです。浜も、もっと広くて、とてもきれいだったそうです。


南千倉2


南千倉

 両海水浴場とも、パラソル、ボード、サマーベッドとも、1日2000円前後のようです。
 両海水浴場の間にある、海岸通り沿いの「コメリ」などで購入もできます。荷物になりますが、買ったほうがお得かも。
 どちらも、トイレ、シャワー(水)の施設があります。もちろん無料です。


南千倉3

私の先生2016年07月28日


君の心が戦争を起こす


■羽仁五郎
「君の心が戦争を起こす」 はじめに  -より
------------------

 この本は、二度と戦争を起こさせないための本だ。
 今、世界は、そして日本は、一歩ずつ戦争の方向に向かって進んでいると思われる。誰もがそれを望んでいないのに、誰もがそのことに手を貸している。そんな不思議な構造の時代になってしまっているのだ。こういう人間の心、歴史の動きというものは、いったいどこから来るのか。
 この本では、戦争が起こる理由、人びとが戦争を望むようにしむけられるしくみ、テレビや小説、映画の流行とかの意味、みんなが人生をあきらめさせられてしまっていること、そして戦争を起こす犯人の正体と、戦争を防ぐ方法についてなど、ぼくが八十年余りの生涯をかけて研究してきたことの成果を、書きつくした。だからこれは、平和を愛する日本の人びとに贈る、ぼくの遺言の書なのだ。
一九八二年一二月一日
羽仁五郎

「君の心が戦争を起こす」 おわりに  -より
------------------

 反戦論はオオカミ少年だ、という議論がある。戦争が起こるぞ、起こるぞ、と騒いでいるが、なんだ、ちっとも始まらないじゃないか。そんなことばかり言ってると、今に反戦論自体、すっかり信用がなくなってしまうぞ、ということらしい。
 しかしこの考えは、とんでもないまちがいだ。日本でもアメリカでも今までなんとか平和がたもたれてきたのは、みんなが、この反戦論、戦争はいやだ、絶対反対という意見を叫んできたからなのだ。それでもたりないくらいで、今やずるずると“右傾化”が始まっている。もっとたくさんの大きな声を、戦争に反対という声を、集めなければだめなのだ。この本がそれに一役かってくれることを、ぼくは心から願っている。「予言」になってしまうが、まだだいじょうぶだとか、もうだめだとか、誰かにまかせておけとか考えていたら、必ず戦争になってしまうことを、くりかえして強調しておきたい。
 終わりに、この本を作るのに貴重な協力をしてくれた若き友、小野伸尚君に、感謝のことばをささげる。
羽仁五郎

------------------

 東京の国分寺に住んで二浪だった私は、北陸にある大学受験の帰りに、前年名古屋の大学に入学していた友人の下宿を訪れました。1969年2月のことだったと思う。ちょうど、カルメン・マキの「時には母のない子のように」がラジオから流れていた頃です。
 友人の通う大学の体育館で、羽仁五郎氏の講演があると聞き、出かけました。そのときのうわさでは、ここに来る前の東京の大学の講演では、「おまえは、ただの扇動家だ!」というヤジに「すぐれた思想家は、すぐれた扇動家である!」と言い返し、そのまま学校封鎖になだれこんだということだった。
 そのときは、遠くから羽仁五郎さんを見ただけでした。学校封鎖にもなりませんでした。しかし、その北陸の大学に通いながら、彼の著作は読み続けました。

 彼の思想を理解したとは言えないけど、「野党第一党」に投票を、という言葉は重いものでした。権力は腐敗するから、入れ替えが必要ということです。
 現在の野党第一党は、民進党ですが、どうしてもこの党が野党とは思えません。実体は、与党と変わりがない、というのが実感です。
 羽仁さんが生きていらっしゃったら、それでも野党第一党に投票を、とおっしゃるのでしょうか。
 最善の策として、次回選挙では「野党統一候補」ですべて一本化してほしいです。

 
「君の心が戦争を起こす」を書いたのが1982年12月、亡くなったのが半年後の1983年6月です。まさに、遺言の書になってしまいました。

 33年前に買ったこの本は数度の引っ越しにも紛失することなく、ぼろぼろにはなってますが、この危うい時期に改めて読み直そうと思っています。


■小学校
 「えーっ、あたしも5年生の時、甲州街道にアベベ見に行った!」の、一言で仕事仲間であった彼女の年令詐称がばれてしまった原因でもある、あの東京オリンピックの4年前。
 私は港区立青山小学校の5年生でした。先生から聞いたのでしょう、安保反対の国会前デモで樺美智子さんが死んだとのことでした。かわいそうだと思ったのでしょう。

 放課後、現場に行こうと、青山通りを赤坂方面に歩きました。国会議事堂など行ったことはないはずなので、行けばなんとかわかるだろう、ぐらいの気持ちだったのだと思います。
 結局迷子になり、暗くなってからなんとか家まで戻ることができました。
このことは、後で学校内で問題となったと聞いてます。

 私の組の先生は学芸大卒業のほやほやでしたので、体育の時間は楽しいものでした。サッカー、野球などいろいろなことをさせてもらいました。休みの日に、神宮にサッカーの試合見につれてってもらった思いでもあります。
 しかし、隣の組の担任先生は、ちょっとこわそうな顔で、体育の時間は、年間通して、「行進」だけでした。こども心に、かわいそうに、とおもったものです。雨の日の体育でも、校舎内の「行進」です。
 当時の組替えは4年生になる時だけでしたから、隣の組は、もしかしたら3年間、体育の授業は「行進」だけだったかもしれません。
 当時は、一人ひとりの先生の権限が強かった気がします。

(校内の階段の踊り場の上のほうのガラス窓に、弾丸が貫通したような丸い穴があいてました。あの穴はなんだったのでしょう?)

■中学校
 小学6年の途中で港区から国分寺町(今は国分寺市)の麦畑とシバ畑と雑木林しかないとこに引っ越しました。家の西方に「けやきだい団地」が建つ前は、富士山がくっきり見え、立川飛行場に離発着する飛行機が白く光りながら富士山のお腹を横切る姿は今でもまぶたに残ります。

 引っ越して住んだとこの近くに外人ハウスと呼んでたエリアがありました。横田、立川基地勤務のアメリカ軍人家族が10家族くらい?住んでました。なかでも、私と同じ位の年の男(名前が思い出せない!)の子と、その妹二人とはときどき一緒に遊びました。お姉さんはベティ、下が私の弟と同い年。コロッとしていてかわいい子でしたが、弟は彼女と相撲して投げ飛ばして、よく泣かしていました。

 中学は、国分寺三中です。ただ、入学時には校舎が未完成で、しばらくは、ちょっと離れたとこにある一中に間借り、自転車通学でした。

 担任の坂根先生は美術の先生で、美術の授業なのに武田信玄、プロレスの話を興味深く話してくれました。クラス全員で日記をつけることになり、日記帳の表題に「きょうの出来事をこう思う」と書いたら、ほめられました。ほめられたのは、この1回だけでした。

 この新しい三中の校歌を作る際、坂根先生は決まりかけていた校歌に猛反対をしたそうです。後で聞いた話なので伝聞です。反対の相手は、校長一派で、わけは、歌詞が文語体であったからです。学校を二分するほどの騒ぎになったようです。
 どんなことに対しても「いいことは、いい」「だめなことはだめ」と言うのは、簡単そうで、たいへんむずかしいことでもあります。大人になると、欲、しがらみ、世間体などで、思っていることを表に出さない、出せないことがあります。
 わたしは、坂根先生のように、いいことはいい、だめなことはだめ、と常に表現できる生きかたをしたいと思っています。それには、つねに自分を律していかねばならないので、むずかしいことではあるのですが。

 ある日の授業が教頭先生によるものでした。はっきり覚えてますが、黒板に渡り鳥のV字飛行の絵を描きました。「このように、後ろについて飛んでる鳥は、先頭の鳥に従って飛ぶものだ。」当時は、この教頭先生がなにを言いたいのか、はっきりとは理解ができませんでしたが。たぶん、言いたかったのは、人間の世界においても、トップの人間の言うことに従うのは当たり前のことだ。ということだったのでしょう。
 きっと、管理者である自分の言うことをきかない、教職員が多かったんでしょうね。

 子供にこの種の洗脳教育をするのなら、中学では遅すぎるでしょう。小学生の時に、徹底的に洗脳しなければならないでしょう。V字飛行の教頭の話を聞いたときには、なんか、うさんくさい気配は感じましたから。

■高校
 隣の町にある立川高校に、バスと電車(中央線)で通学です。すでに「けやきだい団地」ができていたので、家の近くに国立駅行きのバス停ができていました。
 担任は、英語の先生でもある秦先生です。入学は、1964年でしたから、ベトナム戦争が激しいときでした。英語の授業時間は、ベトナム戦争の話が多かった記憶があります。たしか、近いうちに、アメリカが撤退して戦争は終わるだろう、とおっしゃったはずです。しかし、ベトナム戦争が終わったのは、その10年後、1975年でした。
 あのころのニュースでは、横須賀に寄港したアメリカ軍の原子力船が排出する放射能の濃度を測っているとこが映っていました。今も測っているのでしょうか。


今思うと、「私の先生」は、それぞれ勝手なことをしているけど、反権力を貫いた人でした。私の小さい頃住んでいた近くに、たしか、吉田先生と言われていた小説家(?)の年輩の方がいて、どうみても金持ちではないのですが、町内の人からは尊敬されていました。
 それが、いつのころからか、金をたくさん稼ぐ人が尊敬される世の中に変わってしまいました。
 10年ほど前だったか、小説家、安倍譲二はNHKテレビで「小説家は常に反権力でなければいけない。」とおっしゃってましたが、いまや、そのNHKは見るも無惨な政府公報担当テレビ部になりさがりました。民放も風前の灯火です。

 現在の世の中の情勢を知る手段として、インターネット接続を同年代の友人、知り合いに勧め、そのお手伝いをしています。少なくとも、テレビ、新聞(東京新聞を除く)よりましです。
 しかし、このネットからの情報入手も、いつまでできるのか。政府が、回線所有者、接続業者を締め上げれば保証のかぎりではありません。
 

「つつがむし」 に注意を2016年07月08日

 先日、山でのヒメハルゼミの大合唱を知人たちと楽しんだおり、4年ほど前に私がツツガムシに噛まれた話になりました。
 夏は山に遊びに行ったりする機会も増えるので、注意喚起のために、WEB雑記でリポートした記事を再掲します。(一部編集を加えてあります。)

 年末の山形県羽黒山での行事に、超巨大化したツツガムシ(人が作った藁製)を燃やして悪霊をやっつける、というのがあります。昔から、ツツガムシは人にとって恐ろしいものだったんですね。

 この虫は、山だけでなく、河原、畑、草地にもいるそうで、農家の女性が畑仕事中にタチションするのも、噛まれないようにするためと聞いたことがあります。
 もっともこの情景を私は見たことはりませんが、友人のおばあちゃんは、実行していたそうです。

 成田闘争のとき、農家のおばちゃんたちは、対峙した機動隊に向かい、「おまえらは、ここで、こういうことができるか!」と言って、全員でタチションをしたそうです。

 この虫は、人にくっついてから、数時間の間は一番噛みつきがいがある場所を探し回るのだそうです。

 昔は、裸にして、噛みついたツツガムシを見つけたら小刀でその部分をえぐり出したということです。あーっ、昔に生まれないでよかったー!
 

 ですので、山などから帰ったらすぐに、着ているものをすべて脱ぎ捨てて即洗濯。風呂に入って全身をきれいに洗い流すのがいいです。私は、あのとき以来、頭は洗い流しやすいように坊主にしています。
 また、半ズボン、半袖は厳禁です。長ズボン、長袖が必須です。



(WEB雑記 2012年 より)--------------------------

 今月初め、近くの山でツツガムシに噛みつかれたようです。0.2ミリほどの小さなダニの一種で、噛みつくのはその幼虫とか。成虫になるまえに動物に吸い付き養分を摂取、そのさい病原体を移すようです。

 今から思えば、噛まれてからは40度近い高熱が数日続き、体にじんましんのような斑点が現れはじめます。
 これを見て、ただの風邪でない、と気づきすぐ医者にいきました。
 即、病名をつげられ、点滴(生まれて初めて)。帰りに特効薬のミノマイシンを処方してもらい、7日間、1日2回の連続投与。併用した薬のせいか、大量の汗をかきますが、3週間ほどで、もとの体調に回復。

 病原体をもつツツガムシは全体の0.1%から2%ほどと、比率はかなり低いようで、周りから、宝くじを買うべきでしたね、と言われました。
 また、病原体をもつやつは、その子供(メスのみ)ももつようです。病原体をもつツツガムシの生息ゾーンのような場所があるということでしょうか。

 当地域での活動期間は12月くらいまでらしいですが、私は当分山には入らないでしょう。草地や畑にもいるらしいですが。
 いろいろサイトを眺めていたら、発症するのは、60代から70歳代はじめと書いてありました!10歳くらいは肉体年齢は若いと思っていたのに。かなりショック。
 特効薬のなかった時代の死亡率はかなり高かったようで、この虫は恐怖の的であったようです。

 気が引けましたが、わが肉体上に現れた斑点の写真と特効薬ミノマイシンの写真を載せました。
 なお、卑猥と思われる部分にはモザイクをかけ、カットもしてありますので安心してご覧ください。

発疹


ミノマイシン
-------------------------------------

千倉の「ひめはるぜみ」2016年07月04日

 2011年のホームページ、WEB雑記のレポートより、



 今週まだ生きているヒメハルゼミが持ち込まれた。写真を撮ってほしいとの依頼。
 もう秋がはじまろうというのに、まだ活動してるのだろうか。

 昨年初夏というか梅雨の終わりのころ、探検隊基地の玄関にいたのを見たことがある。
 例年、山全体が鳴くようになり、梅雨の終わりを告げる。
 何匹が鳴いてるかわからないが、感じとしては何万匹もが一斉に鳴いてる感じ。
 写真を撮ったのは初めて。ちなみにこれはメスのようだ。産卵管がある。
 隣のじいさまが、鳴いてるときに手をたたくとピタッと山全体で鳴き止むというので、やってみたことがあるが、鳴き止まなかった。

---------------------------------

現在は2016年7月ですが、ここ2年ほど、この蝉が増えてきているきがします。3年ほど前までは、向かいの山が唸ってるだけでしたが、去年から、その声の量が増えてる気がしていたら、今年は、裏の山からも聞こえます。単に生息域が移動してる可能性もあるのですが。

 鳴き始めの時期は、数年前までは、梅雨の末期、もう夏が始まりますよ、というお知らせでしたが、今年などは、6月中旬には鳴き始めていました。あきらかに、早くなっています。

 昨日夕方、隣の集落の移住組友人が、この蝉の大合唱を聴きに来ました。
友人宅とは直線距離で1キロも離れていませんが、まったく聞こえないそうです。独断ですが、100メートル離れてもおそらく聞こえないと思います。
 合唱の声が最大になるのは、夕方6時から7時ころです。山に近づくとかなりの音量で迫力があるのですが、蚊にさされるので、窓をあけはなって部屋の中で。

 前回レポートの梅シロップに3年もののビワ酒を加えて、ちびちびしながら、ヒメハルゼミの合唱を聴き楽しい時間でした。
 

役立つことば2016年07月02日

まえむきに検討します‥→期待しないでください。
しっかりスピード感をもって‥→ゆっくりてきとうに。
しっかり検討します‥→てきとうにやっておきます。
しっかり精査‥→おおまかにしらべます。もしくは、まったくしらべない。
責任はある‥→あくまで責任はとりません。
きちんと‥→ざっくりと。
じみちに‥→ひまなときに。
可能な限り‥→少しだけ。もしくは、ゼロ。
直ちに人体健康に影響はない‥→すぐに死ぬわけではない。

 権力を握った者の言葉は、翻訳をしないと意味が通じません。

 その意味を解読できたとしても、アベのように 「今までのお約束とは異なる新しい判断」と、開きなおられれば、それまでです。

 小さい時、母親に「男は、ペラペラしゃべるものではない。」と言われ育った私にとっては、いまでも、ペラペラしゃべり続けるアベとかエダノとかは男として信用ができません。
 このことは、私の脳に刷り込まれてしまっているもので、理屈ではありません。小さい時の教育というのは、本当に恐ろしいものです。私の父親は死の数日前、病院のベッドで意識もうろうの状態なのに、教育勅語を唱えていました。

 2011年の福島第一原子力発電所の爆発以前、「原発は安全」と言い張ってたアベがその後、間違ったことを言っていた責任をとったのでしょうか。
 他人をだます言葉を弄し、自分を正当化するのが権力をにぎった者の常套手段のようです。



{役立つ言葉}

1.今までのお約束とは異なる新しい判断です
次女が小さい頃、冬の夜、布団から足を出して寝ていて、風邪を引くといけないので中に戻そうと足をつかんだら、腕だった。
 この次女はいつもは母親と一緒に寝るんだけど、気が向いたときは私と寝るときがあった。夕方、きょうはおとうさんと一緒に寝ると言うので、「ゆびきりげんまんうそついたら~」と約束。
 さて、夜寝る時間になると、やっぱりおかあさんと寝る、と言い出した。
えーっ、ゆびきりでとうさんと寝るって約束したじゃないか、と、文句を言ったら、少し間をおいて、
やっぱり、あれは、うそでした。」と、見事に開き直りました。

 この次女に、アベほどの知恵があれば、きっとこう言ったでしょう。

今までのお約束とは異なる新しい判断です。」


2.毎日見ていたい
 ① 長女が小さいとき、知り合いの家に遊びに行きました。長女にとっては初めての訪問で最初は固くなってましたが、すぐに飾り棚に置いてあるきれいなガラスのイルカに目が固定されてました。
 やがて帰るとき、また目が固定されました。奥様が「それ、きれいよね。だけど、もらったものだからね、どうしてもあげられないの。ごめんね。」

 長女「うん、わかった。‥‥でも、毎日見ていたい。」

 おみやげとしてイルカちゃんを連れて帰ったことは言うまでもありません。
 応用が効きそうな言葉です。

 ② 網で椅子に縛られても、口を絶対に開けずに歯の治療を拒否し続けて最後に行ったのが一橋学園駅近くの上田歯科。先生の話術がすばらしく、無事治療を終えることができました。ようやく口を開けた長女ですが、使う治療器具については、あれとこれは使わないようにと指示したそうです。
 その長女が成長して、また久しぶりに上田歯科に行きました。その日、私もたまたま治療におとずれたのです。
 先生が「おとうさん、きょうKちゃんが来ましたよ。さすがお姉さんになって、言うことがちがいましたよ。」「そうですか。Kも、もう5年生ですしね。それで、なんて言ったんですか?」
 
 「先生、違う方法でしてください。」

と言ったそうです。

3.あー、うー
若いころ、私の友人は彼女との同棲が相手の親に露見してしまいました。ご両親はすごい剣幕で乗り込んできたのですが、わが友人は、何を言われても、何を聞かれても、
あー
うー
と、だけしか言いませんでした。
相手のご両親も、あまりの反応のなさに、あきれて、帰ってしまったそうです。
もっとも、その後二人は結婚ということになりましたが。
 彼については、さらに面白い話があるんですが、またの機会に。

梅シロップ -完-2016年06月29日

-前回の続きです。

 結局、梅の実を取りだしたのは、漬けてから約2週間後でした。
 梅酒瓶から取り出した梅の実は、シワシワで小さくなっている。おいしそうにも思えないので捨てました。

しわしわになった梅の実

 加熱殺菌は、80度で5分ということなので、ホウロウの鍋の周りに細かい泡が出始めて5分。超弱火です。その間に、浮いてくる不純物のようなものを茶こしで掬い取ります。沸騰しないように注意しながら。

加熱殺菌

 殺菌したあとは、水で冷やします。
また、なるべく口当たりをまろやかにしたいので、コーヒーフィルターで漉すことにしました。
ただ、そのままだとシロップがぽとん、ぽとんとしか落下しません。2リットル漉すのに一日かかりそうな気配。
 当然待ちきれないので、フィルターに針で30個ほど穴をあけました。漉す効果が減少しますが、そのへんは妥協ということで。

 ここで、味比べ。
漉す前と、後での比較です。
原液のままスプーンでなめましたが、正直、違いはわかりませんでした。

コーヒーフィルターでろ過

 漉し終わったシロップはサイダー、スポーツドリンクの空きボトルに。

できあがったシロップの量は、予想外の4リットル以上でした。
しかし、梅の実4キロから、なんで4リットル以上の抽出液がでてくるのでしょう?
途中で水は一滴も加えてないし、グラニュー糖の水分量はコンマ以下です。
梅の実の重量の測り間違えとしか思えません。

完成

 左の少し色の薄いほうが二瓶め、右の少し色の薄いほうが一瓶めです。
一瓶めは、じつは、梅の実の「へた」を取り除いてないものです。色もうすいピンク茶色です。味も、ちょっと舌に残る感じがしますが、これはこれで美味です。
一瓶めの色は、きれいな琥珀色というか、べっこう飴色です。味もこころなしか上品です。

 実際に飲むときは、いろいろ試した結果、5倍ほどに水でうすめるのがいいと思います。
氷を入れるときは4倍ほどがいいです。
 なにしろ砂糖の濃度がはんぱでないですから。
 試してませんが、炭酸水で薄めてもおいしそうです。

比較


梅シロップ -1-2016年06月10日


 
 流れ流され、10年前当地に居ついた時、すでにこの梅の木はありました。
どういうわけか、幹の部分に穴があいてるし、根も地上に露出してるし。
観察していると、それでも、1年おきに10キロほどの実をつけます。
 数年前にこの実で梅酒を作ったことがありますが、今年は、末っ子からのリクエストで「梅シロップ」を作ることになりました。


 用意するものは、梅の実4キロ、グラニュー糖4キロ、保存瓶(8リットル)です。
瓶は家にあるものを使い、グラニュー糖は館山のOWARIYAで1キロ200円くらい。当地、千倉町は館山の経済圏に入っています。

 ここで、獲らぬ狸の皮算用、梅4キロ砂糖4キロからできる「梅シロップ」の量は?

 ネットで調べると、3リットルから4リットルとある。でも4リットルはありえないよなー。ほぼ100%、梅の実果汁を抽出は無理だろーと思う。たぶん、溶けた砂糖水と梅の実との浸透圧作用で抽出するはず。まあ、よくて3リットル、2.5リットルくらいと思うが。二瓶作る予定なので計5リットルかな。


 さあ、作業開始。

 採った梅の実を水洗いを兼ねて流水にさらします。マニュアルによると、流水にさらすのは、アクをとるためのようです。これを3時間ほど。

 さらした梅の実をザルにあげ、乾かします。


 乾かしてる間に、瓶の殺菌をします。焼酎もしくはアルコールで内部を拭くのが一般的らしいのですが、両方ともなかったので、写真のように蒸気で殺菌しました。


 グラニュー糖、梅の実、グラニュー糖、梅の実という順番で瓶に詰めていきます。


 この写真は、3日目の状態です。
一日数回瓶をゆすり、かきまぜています。
いつまで待てばいいのでしょうか。
ネットからの情報では、1週間~1ヶ月とあります。
ずいぶん幅があるなー。


 できあがりの目安は、抽出液が琥珀色、梅の実がシワシワになったときのようです。
梅の実を取りだした抽出液を、炭酸水とか水で4~5倍に薄めて飲みます。

 この抽出液を沸騰させないように80度ほどで、加熱殺菌すると、冷蔵庫で1年くらい保存できるそうです。
加熱殺菌をしないほうが、味がいいという情報もあります。
 加熱と加熱なしでの味比べをする予定です。後日レポートします。

 また、漬ける梅の実に切れ目を入れたり、串で挿して穴を開けた方がいい、という情報もあります。ただ、私の嫌いな苦みが増える可能性もありそうなので、今回はなにもせずに漬けました。
 梅の実を冷凍してから使うと、抽出時間が短縮できるらしいのですが、これも苦みが増す可能性があるので、冷凍せずにそのまま使いました。  -続く-

たまむし色2016年05月10日

 2016年4月、倉庫も兼ねる温室の扉をあけると、ばさばさと音をたてているトンボを見つけました。
 たまむし色に光るトンボです。
 入ったまま出られずにいて、かなり弱っていました。簡単に捕まえることができました。


 人生で初めて見るトンボです。
小さい頃は、近くに用水池のようなのがあり、むぎわら、しおから、名前がわからないイトトンボ、おにやんま、ぎんやんまが飛んでいるのをみることができました。イトトンボや大きなトンボは数が少なく貴重でした。


この池は一辺6~7mくらいで、中央に島のようにコンクリート柱2本くらいが頭をだしていました。小学高学年だったおじは、この池に落ちて大騒ぎになったことがありました。
 駄菓子屋で「水爆」という、水の中でも消えない「2B」を投げ込んで遊んだのもこの池でした。

また、家の近くに、コンクリートを敷いたような広場があり、わたしたちガキのたまり場でした。両方とも、戦時中の陸軍の施設だったものと思われます。
 このあたりで地中の焼夷弾を見つけたこともあります。
 大人の背の高さくらいの鉄の棒をあたりかまわず地中に挿しながら歩いてる人がいました。たぶん、不発弾など金属を見つけて売るためだったと思います。

ついでに、当時は水洗トイレなどというものは一般家庭にはなく、「おわんや」と呼んでいた人が、便壷からくみ取って樽に入れ、それを天秤棒でかついで歩いていました。私たちガキどもは、どこに運んでいくのか知りたくて、あとをくっついていったものです。

もうひとつ、赤坂のTBSができたばかしのころ、どういうルートでの情報なのか、TBSのゴミ箱に映画のフィルムが捨ててあるという。歩いて30分ほどだったと思うが、見事ゴミ箱から捨てられたフィルムをゲットしました。

 このあたりは、大きなお屋敷があるとこで、ある日、竹でっぽうに最適な竹があるとの情報。わたしたちガキ連中は、大将のゆきおちゃんについていきました。垣根の下から潜り込んで竹林からみごと、もうしぶんのない竹を必要なだけ持って帰りました。

 この竹でっぽうの玉としては、ヤツデの実がよく、近所の家のをむしりとってポケットに満杯に入れて走りまわりました。

青山墓地では、戦争ごっこです。敵は学区がちがう隣町の連中だったような記憶。
ふだんはつきあいがないので、きっと、隣町との境あたりに住んでる仲間がセッティングしたはずです。あそこは赤土が多くて、これのブロックが爆弾代わりで、墓石に正面から当たると、ボコッと音がして砕けます。墓石は、盾の代わりです。
 しかし、本当の敵は「たぬきおやじ」と呼んでる近くのお寺のおじさんでした。見つかるとたいへんなことになるとのことでした。見たことも、見つかった記憶もありませんが。

 上空のセスナ機から、大量の広告ビラが撒かれます。ビラが落ちるあたりの見当をつけてわれわれガキはいっせいに走り出します。かなり楽しい遊びでした。ビラを見つけたのが青山墓地だったことがあります。

そのほか、弁慶橋でのザリガニ釣り、市ヶ谷の釣り堀から台風で魚が逃げたとの情報で捕まえに行ったこと。乃木坂の向こうの幼稚園に通うとき、乃木神社のとこで、車に轢かれないように、すれすれで走って道路を渡るとか。このときは、神社の前の交番に親が呼び出しを受けました。この縁で、私の結婚式場は乃木神社でした。

小学校時代、同級生の女の子がもってきた、金平糖の形の草の実。投げるとセーターにくっつくやつです。これを投げ合って、たくさんくっついたほうが負けという遊びがはやりました。クラスは50人くらいでしたが、この金平糖がある場所を知っているのは彼女だけ。この弾はすべて彼女が供給してたのです。これが欲しくて欲しくて、話したこともない彼女に近づき、その場所に案内してもらいました。広い原っぱの道際にあるのを見たときのうれしさは今でもおぼえています。青山北町です。

キツネノボタン1

 千倉の田んぼの畦にある、「キツネノボタン」です。投げつけて遊んだ「金平糖」ではありません。似ているので、つい写真を撮ってしまいました。花には光沢があり、けっこう惹かれます。
 投げて遊んだ「金平糖」の名は、ネットで調べてわかりました。「オナモミ」です。

キツネノボタン3

 小さいときを今思い出して楽しいことは、やっぱり家のなかでなく、友達との外での遊びですね。

 これらは小学生までの経験(港区)で、中学生のころは、秋、下校の時、赤とんぼの集団を目撃してます。多摩地区、当時の国分寺町です。
 ちなみに、当時の住所、「東京都北多摩郡国分寺町野中新田六左衛門組高木北側」というのは、当時日本で一番長い住所名でした。小学6年の時に引っ越してきたときは、あたりいちめん麦畑でした。
 ちょうど今頃の季節、上空高いとこで、ピーチクパーチクとヒバリの声がします。「すかいらーく1号店」は国分寺市にあると聞いてます。

 この頃から、トンボには好感をもっていて、今もトンボは好きです。ただ、ぱたぱた飛ぶ種類はだめで、すいすい飛ぶのがいいです。
 さっきも、外を歩いていたら私の頭に瞬間停まってから、周りをぐるぐる回って完全に遊ばれてしまいました。

 当地千倉では、今も、イトトンボ、大型トンボもよく見ます。もちろん中型もです。
当地に建設予定だった巨大ゴミ処理施設が、本年春、計画中止となりました。
 これで、人間もトンボたちも以前と変わらぬ空気を吸うことができます。集落内を貫通するグリーンラインでの休日のバリバリバイクなど、可愛いものです。

 当地での田植えは、ほぼ終わったようです。この季節、山が緑の錦となり、とてもいいものです。目にやさしい気がします。

千倉大貫

 以前にもレポートした「タマムシ」。朝、外に置いてある洗濯機の上にいました。同じ玉虫色ということで。


 まったく役にたたないリポートですが、「遺言代わりの雑記帳」ということで。